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管理者養成学校、セールス特訓で学んだこと

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セールス

 

今夜も深夜に記事投稿中のヒロちゃんです~~今晩にゃ~~

 

これから数記事「営業」というカテゴリで営業力に関する記事を投稿します。

具体的には、「管理者養成学校」が主催する「セールス特訓11日間合宿」に参加したヒロちゃんの体験談と、この合宿で得られた成果がその後のヒロちゃんの人生にどう反映されて行ったかをお伝えします。

 

営業に関する体験談は、ヒロちゃんの人生の中で大きなウエイトを締めています。

「セールス特訓11日間合宿」に参加したことで、知識と体験が凝縮してヒロちゃんの体内に入り込み、この経験がもとでその後のヒロちゃんの生き方が大きく変わって行くきっかけとなりました。

 

この体験談をもとにした営業のスキルを纏めておきたいと前々から思っていたので

これを機会に実行していきます。

かなり長い連載記事になりますので、どうかよろしくお付き合いくださいwww

 

まず、管理者養成学校の特訓について知っておいてください。

「地獄の特訓」として知られる管理者養成学校の特訓コースは何種類かあるのですが、ヒロちゃんが「自費」で参加したのは「セールス特訓」でした。

管理者養成学校」でyoutube検索すると様々な動画がでてくるので、一度見てください。今回その中でも、ヒロちゃんが体験した特訓内容に近い動画を紹介します。

 

youtu.be

 

ちなみに、管理者養成学校のHPで紹介されている「セールス特訓」の

詳細な内容は以下を参考にしてください。

 

www.shain-kyouiku.jp

 

 

ヒロちゃんがこの特訓に参加したのは2001年5月でした。

銀行員だった2000年4月から佐久市の営業店に転勤し、2001年2月から営業係に係替えになったタイミングで、訓練に行ったのです。

きっかけは、支店長からの提案でした。

「営業」のノウハウを短期間でシステマチィックに習得するにはとても効果が上がる特訓なので、休みは与えるが費用は自費で用意しろ!!と言われたヒロちゃんは、一大決心を固めて訓練参加費368,400円を銀行から借り入れて捻出し、訓練参加の11日間は休務ということで仕事を調整し、訓練に参加しました。

 

 営業係の経験はこれが2回めでした。

初任店から転勤した支店で営業課に配属されたのですが、営業の“え”の字も

知らなかったヒロちゃんは初めての営業係でほとんど実績が上げられず、

わずか半年で市役所の出張窓口に係替えになってしまいました・・・

(いわば左遷人事です・・)

市役所出張窓口で3ヶ月過ごしたら突然また支店に戻され、今度は各種相談窓口に

係替えになりました。この、各種相談窓口というのが曲者で、銀行取引における

各種相談を聞いて、それぞれの係にお客様を誘導する、または事務関係の案件は

処理するという係を2年以上経験しました。

ここで、銀行業務の事務知識をかなり蓄えましたが、「窓口」なので営業ノルマも

課せられます。現在なら投資商品を売り込む再先鋒を担う係なのですが、その当時は

そういう商品がなかったので、代わりにクレジットカードや、カードローン、

国債販売などがノルマになっていました。

 

このようなノルマがなかなか達成できない状態で2年間相談窓口を担当していましたが次の転勤先が、佐久市の事務センターになりました(またまた左遷人事です・・・)

支店長に「佐久の冷風に当たって頭を冷やしてこい!!」と言われたのを、今でも鮮明に覚えています。支店長は前任の支店が佐久市の支店だったので、佐久市の事は何でも知ってる方だったのですが、何故ヒロちゃんにこんな試練を与えたのか今持ってよくわかっていません。

 

佐久市の事務センターで手形交換の仕事に14ヶ月従事していましたが、この期間自分に与えられた業務以上に、自分から志願して本来業務終了後残業手当なしで支店の融資係の仕事を手伝っていたことが評価され、事務センターでの勤務が1年近く短縮されることになったのです。

 

この「自分から志願して仕事を作る」という行為が自然にできたのが、前出の支店長の

「頭を冷やしてこい!!」の言葉だったかもしれません。

 

当時は事務センターへの転勤が左遷人事だったことにも気づかず、自分の業務の幅が広がると思い込み本来業務に取り組みました。事務センターなのでお客様と接する事は全くないので処理さえ済めば定時に業務終了です。

しかし、6年間残業なしで帰る事なんてしたことのなかったヒロちゃんは、何を思ったか事務センターと同じ建物内にある営業店に顔を出しては完全ボランティアで仕事を手伝っていました。

そんな行動を見ていた営業店の支店長がヒロちゃんの行動を高く評価してくれ、営業店への移動を人事部に打診してくれていたようです。

本来なら2年以上は在籍しなければならない事務センターを14ヶ月で転勤できたのもヒロちゃんの行動と、それを評価してくれた営業店の支店長のおかげです。

 

 2000年4月1日付けで同じ佐久市内の営業店に転勤したヒロちゃんは、最初融資業務の事務係として融資課に配属されました。いわばリハビリ期間です・・

融資事務については、初任店で1年近く経験していたので転勤してもすんなり業務に入って行けました。融資窓口、営業係が取って来た案件を、融資という形にするための事務の一切をヒロちゃんが処理していました。融資契約の書類に不備がないかという精査からはじまって、案件実行のためのオンライン処理、関係書類の保管、整理、毎日本部から送られてくる関係帳票の整理など、融資事務は融資の基礎をわかっていないとできない重要な事務係なのです。さらに、不動産担保の定期的な評価替えとそれに伴う担保事務も重要な業務の一部でした。

 

そんなこんなで、転勤した営業店で約10ヶ月融資事務の仕事をこなしてきたある日のこと・・・

支店長と次長に別室に呼ばれ、こう問われたのです。

「お前はこのまま融資事務の仕事を続けるのか?それとも、今後は融資窓口として融資管理と推進で活躍する気はないのか?」

この質問に対し、何をどう思ったのかヒロちゃんはこう答えるのです。

 

「自分は、融資を売ることを中心とした営業の仕事がしたいです!!

 融資の取り上げは数々見てきましたので、今度は案件を見つけてきて

実際に融資として取り上げる過程を勉強したいです!!!」

 

つまり、営業の仕事をさせてくれと頼んだわけですね・・・

自分には不向きだと思っていた営業の仕事になぜまた手をあげたのかは

未だ持って動機は不明です・・・・・

ただ、あの時の面接の席で、今後のヒロちゃんの方向性が決まると実感したとき

とっさに出た言葉が、営業だったのです。

実は、これには深いヒロちゃんなりの計算があって、実は将来は融資係として

活躍したいが、融資を案件発掘から採り上げまでの一連の営業体験を全くしてこなかったので、これをきっかけに、案件発掘から採り上げまでの一連の流れを体験したい、という思惑がありました。採り上げのきっかけを知らずに、その後の回収管理はできないと思っていたので、こういう発言をしたのだと思います。

 

ヒロちゃんからこういう言葉が出てきて、とても驚いた支店長と、次長はその場での

即答は避けて、後日ヒロちゃんに融資事務から営業係への係り替えの辞令が出ました。

 

転勤で営業係の人員が減ったところにヒロちゃんが配置され、先輩が担当していた

エリアを引き継ぐ形で営業課に掛かり替えとなりました。

大町支店で営業係を半年やってたときから数年経ってからの営業係です。

前の時は車で移動していましたが、今度はスーパーカブが移動手段です。

雨の時はカッパを着ないといけません・・そんなこんなんでヒロちゃんの営業課

としての日課が開始されました。

 

初めの一月はエリア内の全戸訪問がノルマになりました。

これは支店長からの指示もあり、担当エリア内のお客様を知るために

全戸訪問して名刺を置いてこいと指示されたのです。

定例訪問先があるので、そこを除いた空いた時間で全戸訪問のノルマ達成のために

活動しました。担当エリア内の住宅地図を見ながら、雨の日は傘を刺して歩いて

訪問していきました。

 

期間は一ヶ月だったのですが、なかなか訪問が進まなかったので2ヶ月目も主な営業活動は全戸訪問です。

そんな事をしていた3ヶ月めに支店長から営業特訓への派遣が提案された次第です。

 

 支店長は日本橋支店の課長を勤めていたとき、管理者養成学校主催のの1日セミナーに

土日の休みの時に自費で参加していた経緯があったので、ヒロちゃんにこの訓練への

派遣が提案されたのです。営業スキルを体系立って短期間に身につけるためには、

この訓練に“自費”で参加することが最も重要なファクターだったのです。

 

実は、この特訓に参加した人がヒロちゃんが勤めていた銀行の中に過去にいたのですが、その方とは、紳士服のAOKIに出向した先輩がいて、出向先のAOKIから地獄の特訓に派遣されて特訓に参加したそうです。

その先輩は、出向が終わって銀行に戻りましたが、その後新宿支店の支店長として活躍されたそうです。

 

そんなこんなで、2001年の5月の連休が終わった次の週の某日、ヒロちゃんは「セールス特訓11日間」に参加するため、午前中仕事をしてから管理者養成学校のある静岡県富士宮市に移動したのですが・・・

この時点ですでに他の訓練参加者から遅れを取ることとなったのです・・・

暴露ですが、規定のカリキュラムは11日日間なのですが、ヒロちゃんは14日間かかって卒業することができました。

つまり、11日間以降は、補講として毎日15,000円ほどの費用を払い3日間で追加費用5万円弱を支払った上でやっと卒業できました。

 

卒業するということは、あなたはセールス特訓を完璧にマスターし、作成した「私のセールス5則」を完全履行し、訓練参加後の短期目標を必達するというスキルを体得したという事を認めてもらえたということなのです。

 

つまり、この訓練で体得したことはその後のヒロちゃんにとって営業の根幹となっていて、卒業後の短期目標は必達される事を約束されたことになるのです。

 

これは、卒業生を送り出す管理者養成学校にとっては当たりまえのことで、訓練生は皆派遣先の会社から訓練参加費を負担してもらって参加しているからです。

卒業生が派遣先の会社に帰り、バリバリ実績を上げてもらわないと、会社のメリットは何もありません。管理者養成学校は、現場に戻った訓練生が即日営業で目に見える実績をあげなければ、学校としての責任を果たさなかったことになります。

だから、卒業検定はとても厳しいものでした。3日間の補講の末に、ようやくヒロちゃんのスキルは実践に役立つと判定され、14日間で卒業となりました。

 

ヒロちゃんが職場に提出した「私のセールス5則」を以下に掲載します。

訓練卒業後、次の支店に転勤になるまで3年間この約束を守り通しました。

 

 

             「私のセールス5則」

 

1.毎週す曜日の新規訪問先件数を10件から15件にします。

  (イ)1週間の訪問予定表を月曜日の朝までに完成させ水曜日は新規先のみの日とします。

  (ロ)前日に水曜日の段取り準備をし9時20分までには出店します。

 

2・有効面談率を60%から75%へ向上させます。

  (イ)毎週木、金曜日に30件の電話アポを取り決定権者に面談できるようにします。

  (ロ)訪問先の属性情報は火曜日までに収集します。

 

3・企業財務分析能力を高め財務面からの提案営業を行います。

  (イ)財務トレーニー研修を受け財務分析能力を高め受資の発見に繋げます。

  (ロ)2つの業界(中古車販売業、建設業)の動向を研究し、社長との面談の基礎とします。

 

4・第一印象を良くしお客様に信頼されます。

  (イ)正しい礼儀を身に着け、明るいハキハキした挨拶をします。

  (ロ)毎朝鏡で笑顔の練習をします。

 

5・交渉能力を高めます。

  (イ)予め想定される断り文句の応酬話法を考え、シュミレーションの上お客様と面談します。

  (ロ)前日に水曜日の準備をし9時20分までには出店します。

 

6・短期目標、実売の決意と約束

  6月15日までに事業性融資増加額5百万円。

 

 

 

当然、約束通り短期目標は達成しました。

その後の約束に着いては、約束通りヒロちゃんは佐久の営業店で見事に

新規の融資先獲得と、他行肩代わり資金や増加の運転資金実行など自分のノルマを

100%達成できる営業マンに成長する事ができました。

 

ここまで短期間に人間性を変えるきっかけになった特訓での体験を

次の記事では詳しく紹介していきます!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

長野市「居酒屋いろり」かわら焼きが名物の行きつけ居酒屋!

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吉田類

 

お晩でやんす~~~~ヒロちゃんです!!!

 

吉田類さんの「酒場放浪記」という番組ご存知ですか??

酒場放浪記で長野県のお店が5店舗紹介されていますが、その中の2店舗

長野市「いろり」、松本市「とり八」はヒロちゃんにゆかりがあるお店です。

 

2店とも取材当時の店主はもうお亡くなりになっています・・・

さらに悪いことに「とり八」は店主がお亡くなりになり廃業してしまいました・・・

 

でも、長野市の「いろり」は、店主の息子さんがしっかり後を継いで今でも

元気に営業しています!!

「いろり」はヒロちゃんにとってとても思い入れが強いお店なので、

今回紹介させていただきます。

 

長野市西鶴賀で営業している「いろり」ですが、店主であった降旗さんは

店を構える前は山梨県の富士急ホテルのフレンチシェフだったのです。

昔良く聞いた自慢話に、東京オリンピックの選手村のシェフとしてホテルを

代表して派遣された事を何回も聞かされました。

当時、東京オリンピックは日本の戦後復興と国際社会に日本の底力を見せつける

国威発揚の一大イベントとして国家総動員で取り組んだ大イベントだったようです。

その中でも選手村のレストランで提供される食事については、それはもうとてつもない

力が力が注がれ、世界中から集った選手たちに最高のパフォーマンスを発揮してもらうために、日本中のありとあらゆる方面から腕の立つ一流シェフが集結したらしいです。

 

この記事に書かれていますが、

www.nikkansports.com

 

マスターも富士急ホテルのフレンチシェフとして代表して派遣された306人の中に入っていたのです。

村上信夫総料理長の話は何度も聞かされました。とても腕の立つ人なんだが、同時にとても優しい人だった、下々まで気配りを絶やさず褒めて人を使う人だったとマスターは語っていました。

 

フレンチシェフであった降旗さんが何故長野市に来て居酒屋をはじめたのかは、以下の記事に書かれているので読んでください。

 

nagano-citypromotion.com

 

「いろり」とのお付き合いは、ヒロちゃんが大学卒業し初めて配属された長野市時代から始まっています。1993年4月に銀行員になって長野市内の支店に配属されました。

はじめの半年間は本当にわけも分からず、「仕事をする」ということに慣れる毎日が

続いていて、仕事終わりに飲みに行くなんて余裕は全くありませんでした。

仕事が終わったらまっすぐ独身寮に帰って、缶ビール1本だけ飲んで11時には寝るという生活を送りながら仕事に慣れることを優先していました・・・

 

毎朝6時に起きるなんて、学生時代には考えられなかったので本当にこの習慣に慣れるために半年間かかりました・・・

金曜人の夜だけ、独身寮でちょっと深酒するという、今となっては本当に初々しい生活を送っていましたが、秋ぐらいになってくるとその習慣が馴染んできて、だんだん仕事終わりのお酒が楽しみになって来ました。

 

そんな秋のある日、ヒロちゃんの直属の課長に、「いろり」という居酒屋さんが西鶴賀にあるのですが知ってますか?と尋ねました。

課長はかなりのお酒好きで、長野市の夜の街情報に明るい方でした。

「知ってる、連れてってあげようか??」と言われ、1993年の秋に「いろり」に初訪問したのです。それからお付き合いがはじまりました。

 

ヒロちゃんが「いろり」を知ったきかけは、亡くなったばあちゃんの一言でした。

ヒロちゃんが長野市に住んでいる事を知ったばあちゃんは、

「ヒロ、喜久の店には行ったことあるか?」と聞いて来たのです。

 

喜久=喜久夫は、マスターの名前です。

実は「いろり」の店主降旗さんは、ばあちゃんの甥っ子さんだったのです。

ばあちゃんの妹の息子さんがいろりのマスターで、ヒロちゃんが長野市に赴任したので

こう聞いてきたのです。

 

マスターの実家は、松本市の和田というところにあります。

酪農と農業を営む専業農家がマスターの実家で、農家を営むため高校は農業専門の

南安曇農業高校にマスターは進学しました。当然家の農業を継ぐため勉強が必要だったからです。しかしこの高校生時代にマスターは家業とは全く違う料理人になるという

決断をした経験があったようです。

 

その、きっかけというのが、今ヒロちゃんが働いている温泉旅館にマスターが

夏休みや正月休みのときに手伝いとして働いていたからだったそうです。

マスターのお母さんの実家である温泉旅館に手伝いに来いと誘ったのはヒロちゃんの

ばあちゃんだったようです。

マスターは厨房で料理長から料理の下ごしらえの仕事を手伝っているうちに、料理人になりたいと本気なって奮起し、高校卒業後は家を飛び出して、料理人の道に進んだようです。

山梨県の富士急ホテルを代表するフレンチシェフまで腕を上げたマスターが、何故長野市に来たのかは詳細までは聞いていませんが、長野市でお店を構えるようになったのが

「いろり」なのです。

 

初めて「いろり」の暖簾をくぐり、沢渡の金多屋新宅の孫ですと名乗った時の

マスターの驚きの顔は今でも鮮明に覚えています。

とても懐かしく思ってくれたのか、暖かく向かいれていただきました。

 

「そうすると、ヒロちゃんは敏兄さんの息子か?」と聞かれ、そうですと答えた時のマスターは遠い過去を振り返っているようでした。

敏=ヒロちゃんの父とマスターは従兄弟ですよね。

子供のころは交流があったようですが、お互い大人になってからはご無沙汰していたようで、不意のヒロちゃんの訪問は懐かしい故郷の思い出を鮮明に蘇らすきっかけになったみたいでした。

 

ヒロちゃんもお店に入って、一番最初に目に止まったのが初夏の田んぼの上に

見事にそそり立つ常念岳の写真でした。

安曇野の田園風景のバックにそびえ立つ常念岳。空は雲ひとつない快晴の青空で

常念岳の雪型が見事に映えるそれは素晴らしく、ヒロちゃんの故郷である松本平を象徴する見事な1枚でした。

北信地域は初めての土地で、見える風景が松本平と全く違う事に数ヶ月悩んでいたヒロちゃんにとってこの写真はとても印象に残るものでした。

今でもこの写真は店内に飾られていますが、マスターにとっても故郷を思い出す大事な一枚に違いなかったと思います。

 

こうして、「いろり」に出会ったヒロちゃん、毎週金曜日の夜はお店にいって

一人で飲む習慣がはじまりました。社会人1年目で半年仕事を経験しただけの若造が何を気取って行きつけを作っているねん!!!って言うツッコミはしないでくださいねwwww

ヒロちゃんも若干23歳で行きつけの居酒屋さんで毎週飲むなんて、なんてオッサン化してるんだと思うかも知れませんが、学生時代から晩酌欠かせなかったヒロちゃん、

やはり話し相手がいて飲むお酒は楽しい一時でした。

 

「いろり」は小さなお店です。

カウンター席に5人ほど。テーブル席が3つ。あと、奥に座敷席があってそこに詰め込めば10人ほどという規模のお店でした。

ヒロちゃんはいつもカウンター席の入り口に近い一番隅っこが定位置になっていて、

そこに座りお店自慢の四季の旬な食材を使った一品料理をツマミに飲んでいました。

 

マスターと、ママさんとの何気ない日常会話。あと、カウンター席から向かって隅っこの方にテレビが置いてあって、マスターが忙しくて話できない時は、ぼーっとテレビを眺めながら飲んでいました。

 

更に、このお店は客筋が良かったのです。マスターの旬の食材を中心にした料理と名物かわら焼きを目当てに、ほぼ常連のお客が多かったと記憶しています。

それも、長野県庁職員を初めとした公務員、長野市の有力会社の課長職以上の方、あとマスコミ関係の方も多かったです。

特にSBC関連のご常連さんが多く、もう何十年も通っているという方たちばかりだったようです。マスターが県の保健所から委託を受けたきのこ鑑定員だったこともあり、

きのこのシーズンになるとマスターが出演してきのこの見分け方みたいな特集番組が毎年放送されていました。

 

カウンターで一人飲みしていると、たまたま隣に座ったお客さんと意気投合して

一緒に飲むなんて機会も結構ありました。その中にSBC関連のお客さんが多かったのですが、SBC子会社の電通の社長さんだったり、SBC下請けの制作会社の社長さんなど

様々な方と一緒にマスターの話を介して仲良くなった記憶があります。

それぞれ地位も立場もある方ばかりでしたが、「いろり」ファンと言うことだけで

とても親切にしてもらい、可愛がられた事を思い出します。

 

そんなこんなで、いろり通いを始めてから1年ぐらい経った頃からでしょうか、

マスターのお子さんが店を手伝うようになりました。

はじめは長女の久美さんがお店に立つようになりました。

 

看板娘がお店に立つようになったと、お客さんにはかなりの好評で、

久美さん目当てでお店に来るご常連も多くなりました。

久美さんとヒロちゃん、同い年でもあったので、結構話はあいました。

でも、ある日ヒロちゃんが超生意気な事を久美さんに言ったらしく(ヒロちゃんは酔っ払っていてあまり覚えてはいないんですが・・・)かなり怒らせてしまったことを今でもはっきり覚えています・・・

 

その後、久美さんはお店から遠のいて、家を出たと思いますが・・・その後

結婚が決まったとマスターから言われたこと覚えています!!

霞が関で働く国家公務員と結婚されて、旦那さんが信州の山やスキーが大好きなことから実家で同居するようになったそうです。新幹線で東京駅まで1時間半で行けるので

通勤範囲に入るらしいです。(自分では考えられない・・・・)

去年、マスターが亡くなって、お葬式に行けなかったので、ご自宅にお邪魔してお線香をあげさせていただきましたが、久美さんと20年ぶりに再会しました。

今では2人の息子さんの母として家庭を守りながら、お母さんの支えとしてしっかり家を守るお母さんのイメージでした。

二人の息子さんに「お母さんて怖い??」とそっと聞くと、
「怒られると超怖い~~~~」って即返事が帰って来たので笑ってしまいました!!

 

 

そして、いよいよマスターの長男がお店に入るようになりました。

健さんは東京でパティシエの修行をしていたらしいですが、マスターのお店を残していきたいという意を汲んで後継者としてお店を守る覚悟で戻って来たみたいです。

 

健さんがお店を手伝うようになったのが23年前。その時ヒロちゃんは26歳でした。

長野市の初任店最後の年に健さんと出会い、その後、長野市を離れても機会があるごとに「いろり」に行っては酒を飲んでました。

だんだん、健さんのお客もつくようになり、いままで置いてなかった九州の焼酎も扱うようになりました。これは、健さんの奥さんの影響。奥さんは九州の方で、実家から芋焼酎がたくさん送られて来るようなのです。

 また、客層も変わり、健さんの学生時代の仲間が沢山お店に訪れるようになりました。

若い人たちが来るようになったので、メニューにも変化が現れ若者向きのおつまみも

オーダーできるようになって行きました。

 

でも、お店の看板メニューは名物「かわら焼き」!!!

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かわら焼き

これを目当てに今でも、ディープな酒飲みがお店を訪れています。

 

どこで知ったか、かわら焼きを食べたいと、新規の県外のお客さんが訪れるれるのを何度も目撃しています。

長野市西鶴賀という場所は、権堂の繁華街から外れたいわば裏町的な所で、営業しているお店も何が知らの特徴を持ったお店が並んでいます。

万人受けするのではなく、各お店の個性を気に入ったいわばディープな呑兵衛が多く集まる飲み屋街なのですが、「いろり」もそこを代表する名店になったわけです。

お店の構えも内装も20数年前にヒロちゃんが初めて行ったままで、中身が進化した感じですかね~~~

 

でも、この「いろり」にも変化が訪れました。

マスターが健康を害して、人工心臓を埋める手術を受けたことからはじまりました。

実はヒロちゃん、銀行員を辞めたときから数年間は「いろり」に顔を出す事ができなかったのです。手取りで12~13万円しか稼げない時代を数年間経験していた時は、長野市まで行くお金が捻出できず、この期間「いろり」に行くことができませんでした。

 

その期間だったと思いますが、マスターが人工心臓を埋める手術をしたようです。

このことは、ヒロちゃんの親父が亡くなって、葬儀に「いろり」のマスターが駆けつけてくれた時に初めて知ることになります。

 

その後、温泉旅館のフロント係に係替えとなり、お給料が倍ぐらいもらえるようになったので、「いろり」に行く機会が訪れたのですが、もうそこにはマスターの姿はなくなっていました。体力が衰え、お店に立つことができないようになっていたようです。

そして悲しい事に、マスターは2018年の5月に亡くなってしまったのです。

 

風邪をこじらせてしまったことからがきっかけらしいですが、人工心臓を埋めてあるマスターの体に投与できる薬が限られていたようです。

有効な薬の投与ができないうちに、様々な合併症を併発してしまい、最後は肝臓を悪くしてしまったらしく、お亡くなりになりました。

享年76歳だったそうです。今の医学では早すぎる死だと思います。

 

昨年は、温泉療養指導士資格取得のために、長野市に出張する機会があったので、

昨年の6月講習の日に一泊し、ご葬儀には行けなかなったのですが、マスターのご位牌にお線香をあげることができました。

ご自宅を訪問し、お線香をあげあせていただきましたが、このとき同居していた

久美さんと十数年ぶりに再開することができました。

また、久美さんの息子さんと会話することもできて、その内容が、前出の

「お母さんって怖い??」だったのです。

 

ご自宅を訪問したあとは、今や長男夫婦が切り盛りする新生「いろり」でしこたま

飲んで来ました。健さんの奥さんがお店に立っていて、初めてお会いしたのですが

これがなかなか気が利くとても接客向きのいい方なのです。

背が高く、それでスリムな体型、顔も目鼻立ちがくっきりしていてとても美人!!!

これは新しいファンが沢山付きそうなママさんでした。

 

居合わせた電気工事関連の親父さんと意気投合してしまい、

「店に並んでいる日本酒、一杯ずつ全部飲むぞ」というのに付きあわらせてしまい

普段めったに飲まない冷酒をかなり飲んでしまい、ベロベロになって宿舎に帰ったのを覚えています・・・当然、翌日の講習は二日酔いで超きつい一日を過ごしました・・・

 

「いろり」が新しく代替わりした事がとてもうれしくて、ついつい飲み過ぎましたww

 

 去年の6月以降、「いろり」には行ってないのですが、この記事書いてたら、無性に行きたくなました。

名物「かわら焼き」は一人で行っても食べられるようなので、そう遠くない将来

十数年ぶりにかわら焼きを食べに行こうと計画しているヒロちゃんです!!

 

ぜひ皆さん、長野市の「いろり」ご贔屓にお願い致します!!

ヒロちゃんのブログ読んだと行って行っていただけたら、いいことあるかもです!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

スナック・キャバクラでの一人飲みが終焉!!まじめなヒロちゃん?

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終わり

真夜中に失礼します~~~ヒロちゃんです!!

 

前の記事で、スナック・キャバクラで放蕩三昧のヒロちゃんでしたが、

 

dorachan07.hatenablog.com

 

とうとう、このような浪費生活にピリオドが打たれる事になりました。

今回はこのあたりを綴って行きます。

 

ヒロちゃんが通っていたスナック、

「チビ」

「ニューヨーク」

キャバ嬢の「あやちゃん」がその後どうなって行ったかを

お伝えしなければなりません!!!

 

前の記事にも書きましたが、チビママとニューヨークのママ、ほたるは

友人でした。しかし、二人のその後は全く異なる結末を迎えます。

 

ニューヨークを裏町のビルの一角で復活させたほたるでしたが、

商売は上手く行かなかったのです。

ほたるの家庭の事情もあって、お店が営業してるのがまばらになったのでした。

ほたるの常連さんが利用していた店ですが、行きたい時に開いてない状態が

多くなって行ったので、当然お客が来なくなります。

こうなると、商売上がったりになってしまい、とうとうお店の水光費を

延滞するようになっていったのです。

 

たまに気になってニューヨークの前まで行ってみましたが、営業してなく

水道費や電気代の督促状が店のポストに散乱している始末・・・

オープンから1年後には事実上、廃業状態になりました・・・

その後、ほたるはどうしたのか??ヒロちゃんにも消息は不明です。

 

方や、チビママはどうなかったというと・・・

やはりチビもお客の入りが悪くなり、その時のお店の家賃が負担になっていたようです。ママは思い切ってお店を移転させました。

実はチビママ、雇われママさんだったのです!!

出資者が別にいて、箱だけは用意するから後は好きにやって、上がりの何割を頂戴ね、という契約だったようです。

 

家賃負担がもっと少なくなるこじんまりしたお店に引っ越しました。

今度はカウンターが主になり、テーブル席は2つだけ。

ママと、女の子二人だけで回せるように規模を縮小させました。

ちょうど、ヒロちゃんが佐久のスナックに通っていた時と同じ規模になったのです。

 

この大きさになると、以前よりママとの距離がぐっと近くなり、また、以前よりも

お店も混まないこと、ほたるの店が閉店状態になって行くところが減ったので

チビママとより親密な関係になって行ったのです。

相変わらず、テーブルチャージは毎回4,000円取られるので、キープするお酒は

JINROだけです。ただし、ボーナス支給時だけはチビママにわがまま言って

ラフロイグや、ボウモアを入れてもらいました!!

正露丸を水で溶いたウイスキー飲んだことある??」っていう話題から

ラフロイグ仕入れてもらい、チビママと女の子と一緒に飲んで見たのです。

ヒロちゃんの大好きなウイスキーでいたが、チビママ、女の子の反応はやはり

「こんなの飲めるか~~~」でした。

 

この頃は酒の量販店でも1本3,000円以上はいしていたラフロイグなので

チビママのお店でのキープ代は1万円!!!超高いお酒でした。

 

また、仕事帰りでろくな夕食も食べず、いきなりチビママのお店に行くので

(普通は居酒屋さんとかに寄った後の二次会で利用するのですが・・)

お酒が進むとどうしてもお腹が空いてしまいます・・

 

スナックでラーメンの出前を頼むというのも、このお店に来てから初めての

体験でした。その、出前ラーメンが超うまい!!

 

現在でも、松本市の裏町には2軒ラーメン屋さんがあります。

一軒は店主がコロコロ変わるが営業し続けている「ラーメンQ」

もう一軒は、前の店主の甥っ子さんが店を引き継いで先代からの

店の味を守り続けている「招福」です。

 

ヒロちゃんは招福が大好きでした。

職人気質の親父さんが作る味噌ラーメンと、手作りチャーシューは

それはもう呑兵衛にはたまらない究極のラーメンでした。

お店は超汚い(笑)のですが・・お店に行くと、メニューで餃子や

チャーハンが食べられるので、平日でも深夜になると結構盛っていました。

親父さんが年をとってしまい、深夜の営業が体に堪えるとのことで引退し

代わりに、甥っ子さん夫婦が店を継いだようです。

 

 

おっと、話が脱線しましたが、移転した「チビ」にその後ヒロちゃんは

「チビ」が閉店するまで通うことになりました。

2006年の時期は忘れましたが、「チビ」が移転しました。

移転後、週に最低でも1回は顔を出す飲み生活が続いていました。

店の規模を縮小した結果、チビママのことが大好きなファンが集う

隠れ家的なスナックに生まれ変わり、とても居心地がいいお店になりました。

 

ビジネス的には大儲けはできなくても、経費や出資者へのロイヤリティを

払っても、チビママの取り分がシングルマザー家計を支えるのに十分な収入を

得られる規模で回っていたようです。

 

チビママファンの集いの究極が、2006年の大晦日でした。

2007年への新年カウントダウンをお店で祝うとということで、

チビに通う濃いお客さんが数人集まり、2007年の新年祝をお店で

やったことが今でも印象に残っています!!

 

除夜の鐘を聞きながら、ヒロちゃんが差し入れたヒロちゃんの叔父さんが

営んでいる蕎麦屋さんから買って来た年越しそばを振る舞われながら

2時ぐらいまで騒いでいたのをよく覚えています。

 

その後・・・・・

2007年、2008年はヒロちゃんの人生に大きな転機を与えた年に

なっているのですが、詳細はまた別の記事で紹介します。

2007年の4月1日つけでヒロちゃんは自宅通勤出来る支店から

今度は新潟県上越市の支店に転勤になるのです!!

転勤して、チビママや、キャバクラのあやちゃん通いが終わったかというと・・

そうではなかったのです。

初めての県外勤務、長野県とは違った環境にかなりの違和感を覚えたヒロちゃんは

新潟勤務に全く慣れなかったのでした。

 

独身寮は高田市にあったのですが、今度は片道40分掛けて

イカーで通勤する環境になりました。

当然、寮に帰らなければお酒は飲めないので、高田市での

新規開拓に出る余裕もありません・・・紹介してくれる人と出会えなかったという

こともあったと思いますが、高田市で飲み屋に行ったという機会は数えるしか

経験しませんでした。

 

その代わり、金曜日の夜は仕事が終わると、松本の実家に帰ってから簡単な

夕食を食べたあと、チビママのお店に行っては2時位まで飲んでいる・・・

そんな変な生活を2007年の11月まで続けることになったのです!!

 

この11月というのが、「チビ」が閉店した月でもあったからでした。

チビママ、かねてから交際していた男性と再婚し妊娠したからでした。

夜の仕事から足を洗うということで、2007年11月で「チビ」は

閉店してしまったのです・・・

 

それ以降、ヒロちゃんが仕事のストレスを発散させる場所が無くなってしまい、

だんだん精神的に追い込まれるようになります。

新潟の支店では、なんだか自分以外の人間が全員敵みたいな人間関係に

陥ってしまいました。一番ひどかったのが直属の営業課長で、自分の身の

保全のために、ヒロちゃんの行動をいちいちチェックし、重箱の角をつつく

ような細かいことも管理するようになって行きました。

 

ヒロちゃんのミスを自分がかぶらないように、ヒロちゃんを徹底管理し

その上で毎日営業実績をあげるように監視してきました。

更に良くなかったことは、その他の支店の人たちも、ヒロちゃんを

要危険人物みたいな色眼鏡で見るようになって行ったのです。

それまで培って来た営業スタイルや事務の処理の仕方まで完全否定され

だんだん、ヒロちゃんは自分の居場所を失って行き、仕事上で困った事が

起こっても相談する相手がいない状態になって行きました。

 

さらに追い打ちをかけたのが、新潟の冬の気候でした。雪との戦いです!!

高田市も豪雪地帯なのですが、今まで経験したことのない雪質に大いに

悩まさえれる事に疲弊していきました・・

長野県の雪と違い、高田の雪は湿気を多く含んだ重たい雪が一晩で

30センチ以上毎日積もるのです。

 

通勤のために雪に埋もれた車を掘り出すのですが、何しろ雪が重たい。

スコップで周りの雪をかき出して車の雪を落としてゆくのですが

なかなか雪が落ちない。こんな格闘を毎朝10分以上はしないと出発できない

毎日を送っていたのですが・・・たった一月で疲れ果ててしまいました。

 

2008年の年始は何を思ったか、1月2日に高田の独身寮に戻っていたのです。

その時の心境は、3日の日は1日何もしないでゆっくり過したいと結構切羽

詰まったものがあったように記憶しています。

4日から仕事初め。相変わらず降る新潟特有の雪に悩まされながら、2008年の

営業を開始しますが・・・

だんだん直属の営業課長との人間関係が悪化の一途をたどって行きました。

 

それで、上司のある一言がヒロちゃんの心に「もう限界!!!」と言わせる

ようになり、ヒロちゃんは自分を守るために衝動的にこんな行動をとったのです。

 

その行動とは、銀行本部の健康管理室にメールを打つというものでした。

ヒロちゃんが上司との軋轢の中でどうすれば自分が嫌な思いをしないで済むか・・

その時取った行動が、現状の放棄だったのです。

 

この、健康管理室にメールを打つという行動が、その後どういう結果になるのか

ある程度は予想した上でのものでした。なにしろもう限界だったので、藁を掴む

気持ちで衝動的だったとはいえ、ある意味計画的な行動でした。

 

 

健康管理室に送ったメールというのは、たったの一行、

 

「自殺したいです。苦しまずに確実に死ねる方法を教えて下さい」

 

と、一行だけ送ったのです。

 

 

今でも残っているのですが、2008年の手帳にしっかり書いてありました。

「2008年1月26日、健康管理室にメール」

この日、営業課の朝礼で営業課長がヒロちゃんに言った一言が行動を実行する

導火線になりました。もうこれ以上、我慢してこの人の言う事を聞くことが

我慢できなくなったヒロちゃんは、その日の約束していた訪問先に出かける前に

先程のメールを健康管理室に送り、アポを取った訪問先に出かけました。

 

午前の訪問先を回った後、昼に支店に戻った時のヒロちゃんは、変な意味で

ワクワクしていました。メールの反応がどうなったのか期待していたところ・・

 

昼食の時は何も起こりませんでした。

で、午後の訪問先に出かけ、午後3時に戻った時、支店の中は一種異様でした。

 

戻った途端に支店長がヒロちゃんに詰め寄り、

「これからまだ訪問する先あるのか??」と聞くのです。

 

「預かった通帳を返却するためにもう一件訪問しないと・・・」

と、ゴニョゴニョ言っていると、

支店長が「俺が一緒についていくから、早く済ませよう」

という始末・・・

 

これで、健康管理室に送ったメールの反応がどうなったのか、やっと

わかった始末です。ヒロちゃんは健康管理室預かりの身になって

その日の業務終了とともに、実家に護送されました。

 

長野市の健康管理室から看護師さんが、高田まで飛んできてくれていました。

メールを見たのが遅かったみたいで、スケジュールの調整に手間がかかり

具体的な応対が午後にずれ込んだみたいでした。

 

通帳返却のために、同行した支店長は訪問が済んだ帰りの道すがら

「ここで車を止めて」と道の駅に立ち寄りました。

缶コーヒー片手に、ヒロちゃんからの事情聴取がはじまりました。

 

ヒロちゃんも、今の仕事がうまく行ってないこと、直属の上司と反りが合わない事、

銀行に未報告の借金があって返済に困っていること・・

この際洗いざらい悩みをすべて吐き出しました。

 

その後、支店に戻り、看護師さんと面談。とにかく自宅に戻って休むことと

精神科を受診することを指示され、看護師さん付添のもと長野市まで電車で

移動しました。長野駅に父が迎えに来ていて、父の付添のもと自宅に戻りました。

翌日、松本市相澤病院心療内科を受診することになり、現在も治療は

続いています・・・・・

 

これで、ヒロちゃんの10数年に及んだスナック・キャバクラでの一人飲み三昧生活に

終止符が打たることになりました。

休職中は不思議なことに、ほとんどお酒を口にしなかったのです。

唯一、キャバ嬢あやちゃんだけはメールで連絡をとっていて、休職中でも

月一回の指名が欲しかったあやちゃんのお願いが断りきれずに、開店直後の早い時間にワンセットだけ月1回顔を出す事を1年近く続けていました。

 

ヒロちゃんは、2008年の8月を持って銀行を退職し、9月から現在の旅館で働くことに

なるのですが、転職した最初の1~2年間は、本当に給料が少なかったので、この月一回

5,000円のキャバクラ代金を支払うのが困難でした。(その前の遊び呆けていたときには考えられないほど貧乏・・・)

あやちゃんとは実は、キャバ嬢と馴染みの客の関係より、もっと深い中になりかけて

いたのですが・・・ヒロちゃんの懐具合の悪さや、あやちゃんがとうとう昼夜通しての

ダブルワークで体を壊してしまい、実家に帰ってしまったことからメールでの連絡も

絶えてしまい、今は音信不通です・・・・

 

あやちゃんとの関係も切れたときには、旅館の仕事も本格的になってきて、職場の

寮に泊まり込むことになったので、これで本当に一人で夜の街で飲む生活が完全に 

終焉しました。今は半年の間に1~2回、職場の仲間で飲みに行く機会があるかどうかの

生活ぶりです。

 

家や寮での晩酌は欠かさないので、毎月お酒にかかる費用は1万円弱でしょうか??
でも、スナック・キャバクラで放蕩三昧だった頃にくらべるとかなり真面目に

なったヒロちゃんでしょ??

夜のお店にもかなり疎くなったので、たまに飲みに行くと何処に行けばいいのか

わからいような状態です。外でお酒を飲むお金に余裕もない状態なので、もっぱら

ブラックニッカをちびちび飲みながらyoutubeで動画鑑賞するのが唯一の楽しみです。

 

こんな状態になったヒロちゃんですが、今でも一軒だけ一人で飲みに行ける

居酒屋さんが長野市にあります。

去年の6月に久しぶりに行って来たのですが、ヒロちゃんが社会人になって

初めて行った居酒屋さんでその後ず~~と機会があれば顔を出す居酒屋さん。

次の記事ではこの居酒屋さんの思い出を記事にしますね~~